私の画業への出発は遅く、まさに40歳の手習いでした。横須賀の拙宅の近くに堀江半杓子先生(当時、二紀会会員・女流画家協会委員・元中央美術協会委員)が絵画教室を開かれたのを機に師事したのがちょうど40歳のときでした。その後は堀江先生のお勧めで中美展(東京都美術館)に毎年100~150号の大作を原則として2枚づつ出展し続けるとともに、グループ展や公募展、個展など多くの場に作品を発表してきました。あれからもう35年余の時間が経過しました。
 拙作には建物・都市や機械、さらには電子部品など数々の構造物が登場しますので、それをご覧戴いた方々から「橋本さんは設計のお仕事をされていたのですか?また珍しいテーマの絵ですね」と尋ねられる機会が多くあります。事実、永年にわたってこのような画題(モティーフ)に取り組む作家は日本画壇でも珍しい存在であると思っています。
 私は永年、自動車会社の材料研究所で材料の分析法の研究に携わってきました。昨今の社会生活の加速度的進展は金属、半導体、プラスチックなど材料分野での研究開発の成果によるところが大きいことはご承知のことと思います。その研究のためには透過型電子顕微鏡や粒子線科学などの多くの最新鋭分析装置を駆使しますが、これからアウトプットされるデータの美しさ、さらには分析機器自体が持つ構造物としての機能美、つまり現代のサイエンスの中に存在する❛美❜に接してきました。
 ノーベル文学賞受賞者のどなたかの言葉に「作家の最大の仕事は書くべき題材を見つけること。それで仕事の四分の三は終わる」とありますが、幸いなことに私は「サイエンスの中にある美を通じて、現代社会との結びつきを追求すること」を生涯の制作テーマにすることができました。勿論、当然のことながら、現代のサイエンスを肯定する立場であり、サイエンスへの挽歌ではなく、賛歌という視線から捉えています。その対極には現代社会の病巣を構成する要因の一部に現代の科学があり、それを糾弾する手法として絵画を用いるという立場がありますが、私はその立場にはありません。このような考えのもとに私は「人間社会とサイエンスとが共生している」シーンを❛メカニズム絵画❜として表現したく今日までがむしゃらに描いてきました。
 しかし、私も喜寿まで秒読み状態になり、加齢に伴う体力、気力の低下は否めず、今後も継続して大作を制作するには不安が予測されます。このため、これを機会に「終活」を視野に入れて、これまでの主要作品を整理し、画業の軌跡を「作品記録集」として残すことにしました。(作品記録集に掲載した作品の一部は別掲の「所蔵先リスト」の通り国公立、私立の関係機関と各企業の皆様に収蔵していただきましたので、直接ご高覧戴く機会があろうかと存じます)
 この35年間、画業を継続するにあたっては中央美術協会の皆様をはじめ多くの方々からご指導、ご支援をいただきました。また、共に、画業の道を歩んできたよき盟友であり、またよき妻である豊子に感謝いたします。